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第十一回「片子の自殺を称える物語をつくる」(片子の死の物語)

November 30, 2017

2017年9月30日

協力:女性1名(30代)、男性2名(40代)

時間:約2時間

自宅にて。

 

***

 

 ここまでやってきて、何度も触れられながらもテーマとしては据えてこなかったものがある。それは、「片子の自殺」を扱うテーマである。「そもそも片子の自殺は問題ではないのではないか?」という視点は第一回目より提出されていたのだけれど、第一部の基本方針として片子を生かす方向を目指したためにあまり扱うことができなかった。そこで、今回と次回で「片子の死の物語」をつくろうと思う。

 

 死の物語第一弾として、「片子の自殺を称える物語」をつくろうと思った。なぜなら、この昔話は「自己犠牲の美徳」といった物語として解釈されることが非常に多かった。であるならば、片子の自殺とは本来称えられなければならないものではないかと思ったのだ。そこからどのような物語がつくられるだろうか。

 

 

 

 というわけで9月末、知人にあらたに協力を仰いで箱庭を囲んでもらう。前回までと同様、物語を確認したり趣旨を説明したりする。今回も基本的にはひとつの物語を作りたい、という話をする。

 

 まずは、人形を適宜足したりしながら原作の解釈についていろいろと話し合う。鬼とは何だったのか?という話や、「あんころもち」というアイテムについて。鬼は「チャレンジャーだった」のでは?といった話がなされる。鬼の中にもパーソナリティーがあり、この鬼は「良い鬼」だったのではないか。純粋に交流を求めて、人間の好物である「あんころもち」を携えて夫のもとへ来た。そこで、「女房と取りかえてもよい」と言われ、対価を提示されたなら受け取らないほうが失礼だ、という考えから女房をさらっていったのではないか、といった、異文化間のディスコミュニケーションという主題が語られた。

 

 「あんころもち」が物語づくりの中で重要なアイテムとして取り上げられたのは今回がはじめてだったので、なかなか面白いと思った。「食」という共通の文化を持ち出すことで、異文化の交流という主題がうかびあがる。

 

 その後もいろいろな解釈について話し合う。鬼に好かれる女房には、鬼に好かれる理由があったのではないか?という話から、女房の祖先は片子だったのではないか、という話や、夫が鬼にたいしてジョークで答える場面から、鬼と人間との力関係はそこまで圧倒的な差ではなく、熊と人間ぐらいの差なのではないかといった話などをする。こうして、抽象的な鬼という存在よりはむしろ、異文化のすれ違いという物語になってきた。そしてこの物語は色々な不運が重なった物語だ、という解釈がなされていった。

 

 

 といったところで、今回のテーマである「片子の死」について話してみようと提案。色々と解釈が出たうえで、村に帰ってきた場面について話し合う。いろいろと話すなかで、片子の「鬼性」についての話題へ。片子は自分の命の重さを軽く考えていたのでは?という解釈がでる。極端に合理主義的な鬼社会で偏った教育をうけて育った片子にとって、「生きてるだけでまるもうけ」という発想はないのでは?といった話がなされる。そこから、自分が死んだらすべて丸く収まるという発想を単純に実行にうつしたのでは、という解釈へ。ここでも異文化の差というテーマから物語がつくられた。

 

 どうしてこの物語がマイナーな物語で、浦島太郎のようにメジャーじゃないのかといった話などをはさみつつ、村の場面をもうすこし話し合う。村人の視点に立ってこの自殺を見るとどうなるか?といった話をすると、「もともと鬼なんか来ていなかったのだから、称えるもくそもないのでは?」という話へ。片子の自殺はマイナスをゼロに戻しただけで、称えるまでゆかないのでは、といった話などがなされる。また、最初は「鬼に女房をさらわれたかわいそうな夫」として村人も彼を応援して野菜をあげるなどしていただろうが、片子を連れ帰ってきたことによって厄介ものになった。あるいは、もし他の村人も鬼に身内をさらわれていたのであれば、自分の女房だけ連れ帰ってきた薄情者として扱われるのでは、といった、夫の立場についても解釈がなされた。

 

 そして、片子の暗躍によって村に帰ってこれたという物語上の構成が、村での夫の役割の弱さの伏線ではないか?といった解釈なども。だから夫は村人に顔向けできず、立場がなかったのではないか、など。

 

 ここで「彼の自殺を称えることは難しい?」と問いかけるが、そもそも村人の利益になっていない以上、片子を称えることはできないという話へ。それでも「なんとか称えたい」と粘るも、片子の年齢が10歳であることも問題視される。10歳の自殺を称えることはそもそも反対!といった意見も。

 

 

 

 物語づくりとしては、「片子の自殺を称える物語をつくることはできない」という結果に。その後、「泣いた赤鬼」との比較や、物語が残るということについてなどを話しあう。片子が昔話として残らない理由は、ファンタジー要素が少なすぎて、リアルすぎるのではないか、などと話し合われる。ここで、テーマ設定のアイデアとして「日本=自殺」というライトモチーフがあると思っている、という話などする。日本社会は、世の中が円滑に動いてゆくために精神的であれなんであれ、抽象的なレベルでの自殺が推奨されている社会であるのに、それを称えることができないのは何かおかしいのではないか。これを称えることができれば、違和感のある新しい物語ができたのではないかと思った、などと話す。そこで腹切りや特攻、即身仏などとの比較の話題へ。この中では特攻が近いのではないか?といった話などをする。

 

 最後に、この物語を現代に残すならどうすればよいか?といったことなどの話へ。「歌」にすればよいのではないか?というアイデアが。面白いと思いつつ、なかなか思い浮かばないので、まだできていない。といったところでおわり。

 

 

 個人的には、「自殺してくれてありがとう!」「彼の自殺のおかげでなんとかなりました!」といったごくごく単純な物語がちょっとぐらいできるのではないかと思ったのだけれど、解釈を深めてゆくと思考がリアル社会の価値観に根差してゆくので、飛躍が難しくなるのかなぁ、などと思ったりする。今の社会では自殺というのは完全に悪とされているようで、なかなか語りにくいテーマなのかもしれないと思った。最後にいろいろと話されていたなかで、「自殺は自分自身を美化してしまう」という話があったことなど興味深い。「自殺」というキーワードが、物理的な首つりとかを連想させて語りにくいのはわかるけれど、抽象的なレベルでの「自殺」は幅のあるグラデーションを含んだ概念と思う。現実に色々と自殺しまくっている世の中で、自殺について語る言葉が少ないというのはどうもアンバランスなように私には思える。

 

 

 ↓歌のかわりに「片子地蔵」をつくった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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